会派行政視察 ― 2016/11/09 20:41
会派視察
私たち小樽市議会民進党の5人は11月7,8日に文化庁と横須賀市に視察に行ってまいりました。
まず、7日には参議院会館において文化財部記念物課課長補佐の田中康成氏に日本遺産についてお話を伺ってきました。ご存じの通り小樽市は文化庁が主催する日本遺産認定をめざした動き始めています。これまで保護が中心だった文化財行政を観光やまちづくりに活用していく視点を入れていこうという発想のものです。日本遺産については以前のブログをご覧ください。

神本美恵子参議院議員の紹介でお会いできました。
文化庁は2020年までに全国で100カ所程度の遺産認定をする予定で、認定を受けると様々なソフト事業を中心に補助を受けられることになるのですが現在、全国的に認定をめざす動きが活発化して競争率が高くなっているのです。小樽市はその中で認定を受けるのに何が必要なのか。どんなことをしていけばいいのかを伺ってきました。
日本遺産の認定のためだけでなくその後の実行のためにも、行政組織として、文化財を活用の視点から扱うために縦割り組織を脱し、教育委員会や観光、経済、まちづくり、企画政策の分野で連携したものにすることや、その他のまちの特徴的な事例などのご紹介をしていただきました。
特に興味深かったのは、地域型(単独のまちで認定を受ける方式)とシリアル型(ひとつのテーマで複数のまちが共同で認定を受ける方式)についてでした。
今年認定された例を見るとシリアル型の認定が圧倒的に多かったのですがその理由をお聞きしたところ、「シリアルが有利な訳ではない。申請数がシリアルが多かっただけで、認定された割合は変わらない。また、シリアルの申請が多い訳は、今と昔の地域区分が全く違うので、ひとつのテーマでストーリーを作ると自然と他町村にまたがる事例が多くなる。」とのことでした。
よって、シリアルの方が認定されやすいので、シリアルをめざすというのは本末転倒の発想だということです。
また、シリアルは認定後に予算配分等も含めて他町村との調整が難しく、なかなかやりづらデメリットも見られるそうです。
まずは小樽市民に納得してもらえるストーリーを作っていくことが基本だという事がよくわかりました。

続いて横須賀市議会事務局のお話。
8日は横須賀市役所を訪ね、市議会事務局より、議会運営について伺いました。
なぜ、横須賀なのかというと、じつは横須賀市議会では市長と議会が現在の小樽の一歩先を行く形で緊張関係が続いているとの情報があったためです。
実際、話を伺うと問題になっていることがきわめて似ているのです。
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議会での不正確な、事実と食い違う議会答弁
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市長関係者を市長が直接関与して市役所職員に採用、等です。
問責が出され、その後地方自治法98条に基づく検査権を使って事実を究明しようとしましたができないことが判明し、同100条に基づく調査権に切り替えました。結果として、市長と職員を偽証の罪で検察に告発することになったのです。
その過程で議会側でどのような動きがあったのか等を伺いました。
横須賀市議会ではかなり以前より、議員による議会活性化の動きが活発で学習も進み、議会基本条例等も制定されていた素地があった事などが活発な議会論議を生んでいたようです。
それにもかかわらず、98条、100条による特別委員会運営は大変だったそうです。なにせここで質問、調査したことをもって最後は対象者を虚偽答弁の罪で検察、警察に告発することになるのですから。
これらのお話から、小樽市議会における市長に関わる議論においては、事実をしっかりと冷静に把握することの重要性や私たち議員側にもそれ相当の学習や準備等で力量を高めておく必要のあることを学ばせてもらいました。
それにしても、横須賀と小樽の市長に関わる言動の相似性はいったいどうしたことでしょう。権力を思いのまま使うことの快楽。それを群がり求める周囲からの甘い誘惑。水戸黄門に登場する悪代官はいつでもどこにでも存在するのですね。
これらの誘惑にあらがって、いかに市民の声に謙虚に向き合うのか。きっと幼い頃からのしつけや教育の中で培われてきた強い自制の心が必要ですね。市長や私たち議員も肝に銘じておくべき事です。

メンバー5人で横須賀市役所前で記念撮影
小樽市LD発達障がい児者親の会ぽてとの会講演会 ― 2016/11/12 20:25
蕎麦打ち講習会 ― 2016/11/18 11:39
渡辺陽一氏戦場カメラマン講演会 ― 2016/11/18 21:46
最初に、渡辺さんはどうして戦場カメラマンになったのか。というお話です。現在44歳の渡辺さんが20歳の大学生の時、中央アフリカピグミー族を訪ねた際、子どもたちが銃を持たされ、撃ち合っている状況に遭遇。傷ついた子供が「助けて」とすがってきたそうです。そのとき何もできなかった渡辺さんはその後、自分にできることは何かと自問し、以前より興味のあった写真でたくさんの人に戦争について知らせるカメラマンの道を選択したのだそうです。
先生方の多い講演会でしたので、最後のお話は特に印象に残るものでした。







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